本サイトにまとめられている日之影町広報の中でも強く印象に残っていたものが
「郷土の歴史 三田井豪族の滅亡」でした。
本コンテンツでは、西臼杵地方で領地6千石あまりを所有し、
由緒ある家系であった三田井豪族が、
戦国の世において滅亡にいたるまでの経緯を特集します。

※第10回に次回の案内がありますが、完結しています。

三田井豪族の重臣だったが、高橋元種による三田井討伐の際に内通したのち、当主であった三田井親武を討ち取る。
その後家臣として高橋元種に召し抱えられる。
三田井討伐に多大な貢献をしながら、主人の首をかいた過去から部下として宗攝を抱えておくことを危険ととらえ、元種に討ち取られる。

天正18年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定で高千穂郷は縣城主(延岡城主)となった高橋元種の所領となったが、三田井氏はこれに従わなかった。そのときの領主が三田井親武である。
天正19年(1591年)9月、元種によってそそのかされた三田井氏の家老である甲斐宗摂に親武は討たれた。 同月29日、親武の首級は村民の手によって宮水の地に埋葬される。
後年、地元有力者により墓碑が建てられ、明治初年に宮水神社に祀られた。

元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。
天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に5万3,000石を与えられた。
天正19年(1591年)9月27日 中山城に拠る三田井親武を家老甲斐宗摂の協力を得て討ち取り、高千穂地方を征服した。

九州の主なできごと

1578年
大友家(豊後)と島津家(薩摩)の勢力争いに巻き込まれ、島津に味方していた土持家が大友に攻められて滅びる。

1587年
豊臣秀吉が島津征伐九州平定の軍を起こし、
秋月城の秋月種実(高橋元種の実父)、島津義久が降伏。

1591年
三田井氏討伐のため高橋元種が松山城を北上。
岩井川に着陣し、仲山城にて三田井親武の首を討ち取る。

1594年
高橋元種が甲斐宗攝のいる中崎城に出兵。

1595年
高橋元種が水清谷四郎三郎を大将として 中崎城を攻め、中崎城が落城する。

1597年
三田井親武の長男、三田井重武が自刃したことにより
三田井氏の宗系が絶える。

日本の主なできごと

1578年
上杉謙信が死去。

1582年
本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に謀反を起こされ自害する。
山崎の戦いにより明智光秀が敗死する。

1583年
織田信長の後継者をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が争う賤ヶ岳の戦いが起こる。
羽柴秀吉が大坂城の築城に取り掛かる。

1586年
羽柴秀吉が太政大臣に就任、豊臣姓を賜る。
上杉景勝と徳川家康が秀吉に臣従する。

1587年
豊臣秀吉によるバテレン追放令が出される。

1590年
豊臣秀吉が小田原城を攻め、北条氏が滅亡する。
奥州平定が完了し、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げる。

1592年
文禄の役、朝鮮出兵。豊臣秀吉軍と朝鮮・明軍が交渉を交えながら朝鮮半島で戦う。

1593年
豊臣秀頼が誕生する。

勝敗のカギを握った宗攝の内通

広報ひのかげ 第102号 1973年10月発行
「郷土の歴史 三田井豪族の滅亡 (その五)」

高橋元種による三田井氏の討伐は容易ではありませんでした。長年使える家臣の忠節と峻険な地形を利用して抵抗する姿勢を見せました。
そこで元種は内部の切り崩しを図りました。当時の重臣であり中崎城の城主であった甲斐宗攝に使者をつかわし、内通するよう勧めました。

三田井親武が祀られた宮水神社

広報ひのかげ 第104号 1973年12月発行
「郷土の歴史 三田井豪族の滅亡 (その七)」

宮水神社の創立年月日は不明ですが、別称「親武大明神」とも呼ばれ、安政3年(1856年)に袴谷に鎮座していた北山大明神をここに合祀して郷社になり、明治初年に宮水神社と改称しました。
また、三毛入野命にまつわる神話に由来する雨社も合祀しています。
祭神は大山祇命、三田井越前守親武ほか六神を合祀しています。

甲斐宗攝の最後

広報ひのかげ 第107号 1974年3月発行
「郷土の歴史 三田井豪族の滅亡 (その九)」

高橋元種による三田井氏の討伐に大きな貢献をした甲斐宗攝。しかし主君に刃向かった過去により、新しい主君であった元種の不信感を拭うことはできなかったようです。
主家を裏切り主を殺した裏には深い事情が介在したに違いなく、やはり悲劇の武将であったとされています。

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